2026/07/10
【教養学部】標準の枠外にある生きた言葉を求めて
教養学部、日本語教育センター/新井高子教授
2026/07/10
教養学部、日本語教育センター/新井高子教授
私たちが普段使っている「標準語」は、明治時代以降の近代化の中で整えられた言葉です。その過程で「方言」は標準語の枠組みの周縁に追いやられてきた存在といえます。しかし、そんな言葉の中にこそ、人間の豊かな感情や生命力が潜んでいると、本学で教鞭をとる新井高子教授は指摘します。日本語の教育者・研究者のほか、詩人としての顔も持つ新井教授に言葉に取り組む面白さについて伺いました。
近代以降に整えられた「標準的な書き言葉」の外側にある表現に関心を寄せています。明治時代、日本では近代化のために「言文一致体(口語をもとにつくられた新しい文章体)」が形成され、のちに普及しましたが、その過程で、それぞれの土地に根ざした方言が周縁へと押しやられてきました。私は、そうした言葉の中にこそ、人間が紡いできた大切なものが宿っていると考えています。
東日本大震災後の2014年、震災被害を受けた岩手県大船渡市で始めたプロジェクトにも、そのような思いが反映されています。
このプロジェクトでは、震災によって仮設住宅などに住む「おんば(地元の言葉でおばあちゃんのこと)」たちに、石川啄木の短歌を彼女たちが使う方言「気仙弁(けせんべん)」に訳してもらいました。
気仙弁に触れてまず驚いたのは、その音の豊かさです。
例えば「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」という有名な歌を、おんばたちは「東海(ひんがす)の小島(こずま)の磯(えそ)の砂(すかっぱ)で おらァ 泣(な)ぎざぐって 蟹(がに)ど 戯(ざ)れっこしたぁ」と訳しました。
方言の音を表すために、小書きの「あ」やカタカナの「ア」などを用いるのは、標準語の五十音だけでは捉えきれない微妙な発音の違いがあるから。気仙弁には、五十音では表しきれない、複雑で繊細な響きが息づいているのです。

そして、特徴があるのは音だけではありません。言葉の意味のあり方も非常に細やかです。
たとえば、「あの人からリンゴをもらった」と「あの人からリンゴをもらったった」という表現は、どちらも過去にリンゴをもらった出来事を指しています。
しかし、両者には、リンゴをもらった時期に微妙なニュアンスの違いがあります。前者は近い過去に、後者は遠い過去の行為を示しているのです。
つまり、標準語では一括りにされがちな意味の差異が、方言の中では繊細に分かれ、豊かに言い分けられるということ。その中には、古語がもっていた時間感覚や表現の奥行きが、今も息づいていると感じられるものもあります。
私にとって、おんばたちとの出会いは、言葉とは単なる伝達の道具ではなく、感覚や記憶、暮らしのあり方までも映し出すものだということを改めて考えさせる出来事でした。
また、これらの研究と並行して、戦後の日本演劇界を代表する劇作家の一人、唐十郎の戯曲についても研究してきました。彼が紡いできたセリフもまた、文字になる以前の「声」の力を色濃く宿し、標準的な言葉の枠には収まりきらない表現に満ちています。さらに、彼は、近代的な劇場ではなく、「紅(あか)テント」と呼ばれる仮設テントで自らの芝居を続けましたが、それは長くて深い旅芸人の伝統とも言えます。
こうした声の言葉がもつ力や、表現のあり方の奥深さを追求することが、研究者としての大きなテーマになっているのです。
大船渡市での取り組みの成果は『東北おんば訳 石川啄木のうた』(2017年、未来社)という作品集にまとめています。ありがたいことに、プロジェクトは『東北おんばのうた:つなみの浜辺で』(監督:鈴木余位)という映画にもなり、作品集が大手新聞各紙で取り上げられるなど、大きな反響をいただきました。

私は、研究者であると同時に、詩を書く表現者でもありますが、おんばたちとの交流やそのほかの研究は詩作にも大きな影響を与えています。
2024年に刊行した詩集『おしらこさま綺聞』(幻戯書房刊)は、私が生まれた上州(群馬県)や東北の方言を織り交ぜた独自の言葉で構成した作品ですが、幸い、第6回大岡信賞をいただきました。
これは、声の言葉がもつ細やかな質感を表現しようとする試みでした。方言に含まれる微細な音やニュアンスを取り入れることで、標準語だけでは捉えきれない感覚や意味の揺れに触れることができるのではないか。その可能性を手がかりに、意味内容の奥行きを探り、その地層を掘り進めようとしたのです。

さらに埼玉大学で留学生たちに日本語を教えている経験も、私に多くのインスピレーションを与えてくれます。
例えば、日本語に触れたばかりの留学生に、昨日何をしたか尋ねると、「日本を散歩しました」いう返答があったり。本来であれば「大学の周辺を散歩しました」と言い換えるべき場面かもしれませんが、私はそこに、「日本という大きな空間を歩く」、まるで神話的存在のような巨大な足どりの感覚を感じてしまったりします。
ネイティブではないからこそ生まれる、思いがけない言葉の結びつき。そうした言葉の中には、ときに整った表現以上に、人の心に届く力が宿っているように感じられます。
だからこそ、授業では、文法の誤りを正すだけではなく、学生たちが書いた文章を読み合い、その内容や表現の魅力について言葉を交わす時間を大切にしています。自分の言葉で表現し、それが誰かに受け止められる経験は、書き手にとってかけがえのないものだからです。
こうした営みを通じて、学生たちだけでなく、私自身もまた一人の表現者として多くのことを学び続けています。私にとって、詩を書くことも、研究することも、日本語を教えることも、すべては言葉の本質に触れようとする、ひと続きの営みなのです。
