01 加地 大介 分析形而上学(とくに、存在論的カテゴリー論)
社会、文化、教育、環境、科学
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加地 大介
副学部長 教養学部 教養学科 哲学歴史専修課程、教授 【専門】哲学

経 歴
1983年    東京大学教養学部(科学史・科学哲学分科)卒
1989年  東京大学大学院人文科学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学
1993年  埼玉大学教養部専任講師
1994年  埼玉大学教養部助教授
1995年  埼玉大学教養学部助教授
2005年〜 埼玉大学教養学部教授

著 書
『なぜ私たちは過去へ行けないのか――ほんとうの哲学入門』、哲学書房、2003年。
『穴と境界――存在論的探究』、春秋社、2008年。

〈当たり前〉を見つめ直して実在の本性に迫る

〜〈当たり前〉について考えることは、当たり前でなく面白い〜


 私は、一般に「分析哲学」と呼ばれるタイプの(主に英語圏で普及している)現代哲学で採用されている種々の方法を用いながら、「形而上学」という分野に属する考察を行う「分析形而上学」を主たる専門としています。
 「分析哲学」はどちらかと言えば歴史的由来に基づく総称であり、必ずしも明確な統一的方法論があるわけではありません。しかし一般的には、個々の哲学的問題に対して比較的通常に近い形での〈論証〉を用いながら各自が回答を提示し、対立する見解を有する研究者たちとの論争を通してその精度と一般性を高めていくところに、ひとつの特徴があります。
		
 また、分析形而上学にも色々な形態があるのですが、私は、現代論理学を利用した形式化の手法なども用いつつ、この世界にはどのような種類の存在者が互いにどのような関係を持ちつつ存在するのか(あるいは存在し得るのか)ということを最も一般的・基礎的レベルにおいて考察する「存在論的カテゴリー論」を中核として、実在一般がどのような本性を持つのか(あるいは持ち得るのか)、ということについて考えています。

PROCESS


驚く
アリストテレスは、哲学は驚きから始まると言いました。逆に言えば、驚かない限り哲学は始まらないということです。その驚きは多くの場合、それまでは自明のこととして気にもしなかった〈当たり前〉のことに驚く、つまり、ふだんは自分自身も含めて誰も驚かないようなことに驚く、という独特の驚きです。

驚きを〈問い〉として明確化する
哲学的考察を始める場合、自分がいったい何を問いかけているのかが自分自身にとってもはっきりしない場合がままあります。また、問いそのものの中に哲学的混乱が含まれていることもあります。したがって、まずは問いそのものを明確にして適切に定式化することが必要となります。

ことの〈核心〉を探り当てる
問いに関連する事柄について、「混乱・夾雑物・曖昧さ・多義性を取り除く」「隠れた前提を暴き出す」「論点先取・悪循環・矛盾などの論証的欠陥を見出す」「分類・分析・総合を行う」「アナロジー・思考実験を利用する」等々、ありとあらゆる手段を駆使して問題の根源とそれに対する自らの回答の要点を見定めます。

探り当てた核心を〈一般化〉する
哲学、とくに形而上学の重要な特徴は、できる限り一般性の高いレベルで考察を展開することです。個々の具体的な哲学的問題の背後には、その問題が属する分野のより一般的な問題群や隣接する諸分野との関連性が存在します。 それらを視野に入れて考察を進めることによって、実在一般の根本・本質・真相・本性に迫っていきます。

理解を深める
色々考察しても、結局は〈当たり前〉の再確認に終わる「大山鳴動鼠一匹」というべき場合が圧倒的に多いでしょう。そうだとしても、どのような意味で当たり前なのかということの理解が深まっているはずです。哲学では考察の結果よりも過程が重要なのであり、鼠一匹で大山を鳴動させられたとしたら、むしろそれは誇るべきことでしょう。


■ 分析哲学的な考察のプロセス
ここでは、拙著『なぜ私たちは過去へ行けないのか:ほんとうの哲学入門』の後半部で取り扱った〈鏡像反転の謎〉と呼ばれる問題を題材として、哲学的考察のサンプルを提示します。この問題自体は必ずしも形而上学にとって典型的とは言えませんが、〈分析哲学的な〉考察のプロセスをコンパクトに例示するのに好適です。


驚く
鏡像反転の謎とは、「鏡は上下を反転させないで左右だけ反転させる」ということに関する問題です。これは毎日のように鏡を見ている私たちであれば当然わかっているはずの〈当たり前〉のことです。しかし、鏡に物が映るという事象は、鏡面での光線反射という純粋に物理的な事象の所産です。だとすれば、鏡に平行ないかなる方向からの光線に対しても同じ効果をもたらすはずです。にもかかわらず、上下方向では像を反転させず左右方向だけ反転させるのはなぜなのでしょうか。これはまるで「上下方向から光を当てても鏡面の温度は上昇しないが水平方向から当てるとなぜか上昇する」というたぐいの驚くべき現象が起きているかのようです。


驚きを〈問い〉として明確化する
「鏡は上下を反転させないで左右だけ反転させる」とは、正確にはどういうことなのでしょうか。たとえば、自分の左脇を床に着けて鏡に平行に寝そべりながら自分を映した場合も、(上側にある)右手を振ると自分の鏡像は(やはり上側にある)左手を振っています。するとその場合は、「(天地方向としての)上下」方向でも反転が起こっていることになります。ここで気づくのは、実は「上下」には「天地方向」という(実用上)絶対的な方向を表す場合と「頭足方向」という物体に相対的な方向を表す場合があり、鏡像反転の謎における「上下」は、後者の意味だということです。こうして上の問いは、次のように再定式化されます:「頭足方向も左右方向も、当該の対象の向きに依存する相対的な方向付けであるという点で同質の方向付けであるにもかかわらず、鏡は、なぜ頭足方向は反転させないで左右方向だけ反転させるのか。」


ことの〈核心〉を探り当てる
鏡像の左右が反転すると私たちが考えるのは、たとえば図1のように左右の袖の太さが異なる服を着ている自分とその鏡像を見比べるために、想像上で回転して互いの前方向を一致させたときに、同じ太さの互いの袖は逆方向に位置することに気づくからです。しかし実は、互いの前方向を一致させる回転の方向は無数にあります。そして図2のように垂直方向に回転して一致させた場合は、先ほどとは逆に、互いの頭や足が逆方向に位置することになります。このことから、どの方向が反転するかは、結局のところ自分が実物と鏡像を見比べる際の回転軸の方向に依存するのであり、鏡像反転の謎とは、そのように自分が自然に回転軸を頭足方向に設定しながらそのことに無自覚であるため、あたかもそれ以外に回転の方向がないかのように思い込んでしまうことに由来するのだということがわかります。

図1 水平回転による前方一致、図2 垂直回転による前方一致


探り当てた核心を〈一般化〉する
M. ガードナーは、その著書『自然界における左と右』の中で、図3のようなデカルト座標を用いて鏡像反転を一般化し、厳密に数学的に考えれば鏡は左右ではなく前後を反転させるのだと主張しました。そして、左右を反転させると私たちが考えるのは、私たちの身体をはじめとする物体がだいたい左右対称であることと、私たちが日常語の用法に囚われていることとによる混乱の結果だと断じました。しかし、回転軸を中心とした図4のような円柱座標を用いて一般化すれば、物体における左(右)回りの配置を右(左)回りの配置に変換する操作として、鏡像の左右反転も厳密に数学的に解釈できます。つまり、ガードナーの見方は、鏡像反転の複数の解釈方法のうちのあくまでもひとつにすぎず、左右反転もそれと同等の資格を持つ真っ当な見方だったのです。また、たとえば図5の卓上蛍光灯のようなまったく左右対称とはいえない物体や‘C’ ‘E’のようなむしろ(頭足方向としての)上下が対称である文字の鏡像についても、通常私たちは上下ではなく左右が反転すると考えます。このことからも、物体における左右の対称性ではなく、物体の通常のあり方における頭足方向に働いている重力こそが、左右反転における回転軸方向を決める最も重要な要因であると考えられます。


理解を深める
私たちが通常、回転を介して左右の反転として鏡像を解釈する、すなわち、デカルト座標よりはむしろ円柱座標を用いながら鏡像反転を解釈するのは、重力方向という特権的方向を大前提として地球上の環境内で生きている生物としての私たちのあり方が、〈鏡を見る〉というごく日常的な認識の営みに対してさえも無自覚のうちに反映されているからだと考えられます。鏡は、そのようにして生きる私たちの〈地上的な〉あり方と、重力のようなふだんは意識さえしない絶対的前提としての〈当たり前〉の重みを、鏡像反転という謎かけによって私たちに教えてくれていたのです。


図3 デカルト座標
鏡像は、デカルト座標における実物の表面上の (x,y,z)の三つの座標のうち、ひとつの軸上の値の符号を正(負)から負(正)へと変換させた結果として解釈できる。
図4 円柱座標
鏡像は、円柱座標における実物の表面上の (r,θ,z)の三つの座標のうち、回転角度を表す値θの符号を正(負)から負(正)へと変換させた結果として解釈できる。

図5 卓上蛍光灯

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